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乗って楽しい見て楽しい、こんなものは最高だ

流行りといいますか、バイクブームは過去にも日本の経済成長と共に訪れています。1970年代には高度成長期で今までアメリカ主導だったバイクの生産が日本に移りより精密なメカニズムを搭載した日本製のバイクが現れ世界に輸出されるようになりました。HONDA DreamCB750、YAMAHA 650XS1、KAWASAKI 900Super4はその最も顕著たるバイクで、バイクと言えばハーレーといった概念を壊し日本をバイク大国へ押し上げた素晴らしい名車です。80年代はかつてない空前のバイクブームが訪れました。一部では「狂乱の80年代」と呼ばれメディアの普及と共にロードレースや鈴鹿の8時間耐久レースが若者の関心を高め、メーカーはレーサーレプリカを販売し高価なバイクが飛ぶように売れました。

YH戦争といってヤマハとホンダが業界一位の座を狙い毎月新車を出し一気にバイクの性能も高まり、バイク販売数は2013年が約45万台に対しピーク時1982年は329万台なので、そのブームがいかに凄かったかは数字が物語っています。バブル経済や暴走族等の社会的要因や漫画で言えば「バリバリ伝説」が人気で一般人まで巻き込んだブームとなりました。ここまでいくとバイクは実用性よりも趣味の世界に入っていき、個人のライフスタイルに合せた乗り物として認識されるようになりました、その後、バブルの崩壊による経済事情また原付バイクのヘルメットの装着義務化が推進され手軽さがなくなりブームが衰退していったようです。

ただし90年代にもHonda Steed400やYamha Majesty250などの名車は生産されていてストリート系は進化をとげ、20代の若者たちはファッション的な役割をもつバイクに魅了されました。そして「第3次ブーム」です。これは某メーカーのお偉いさんが言った言葉ではっきりとした定義はありませんが、バイクの登録台数も2010年以降は微増にあり、250ccのスポーツバイクの販売ラッシュを見るとブームというよりは安定性が出て来たと考えた方がいいかもしれません。

話し合いが好きな人、嫌いな人、どっちでもない人

会議と言いますが、最初のレースミーティングは1983年にニュージーランドクライストチャーチ郊外にあるRuapuna Speedwayにて開催されました。このクラブの設立の背景にはクライストチャーチのChristchurch Motorcycles、Classic Linesという2つのバイクショップが携わっていました。クラブは順調に成長し、ニュージーランド内の日本人以外のレーサーの関心を集めていきます。

そしてNorthern BEAR's、Central BEAR'sという2つのクラブが新たに生まれます。このクラブにまたがるレースイベントとしてNorthern Sound of Thunder、Central Sound of Thunderが開催され、クライストチャーチのRuapuna Speedwayで2月最終週に開催されるSound of Thunderと合わせて、レースシーンは拡大していきました。この時代のレーサ達ーはDucati TT2、Weslake、Denco、BMWなどでレースをしていました。

そして、この中にジョン・ブリッテンも含まれており後のオリジナルマシン開発に繋がっていきます。当時最も強力だったエンジンはDucatiのベベルドライブ(ベベルギアによってカムシャフトを動かす機構)の860ccVツインエンジンでした。ジョンと友人のマイク・ブロスナンは、もっと現代的なバイクを作ろうということで彼らのオリジナルマシンであるAero-D-Zeroを1985年に完成させます。

同じようにできたらどんなに楽しいことでしょう

とんでもなくバイクの扱いが上手いMotoGPライダーたちのライディングスタイルに繋がる起源を辿っていくと、1970年代後半に登場したケニー・ロバーツが最初のゲームチェンジャーのひとりとして浮かび上がってくる。当時のWGP最高峰だった500ccクラスのマシンの性能限界はまだまだ低く、マシンに負担をかけない直線的なライディングスタイルが一般的だった。これは排気量500ccの2ストロークエンジンから繰り出される強大なパワーが、当時の車体やタイヤの性能を遥かに上回っていたからだ。そんな状況の中で、ダートトラック出身の米国人ライダー、ケニー・ロバーツはこの限界を超越してみせた。

彼は車体とタイヤが持つ弱点に突破口を見つけ、優れたスロットルコントロールで理論的なグリップ限界の更に上までプッシュすることを可能にしたのだ。またロバーツは、コーナー内側に大きくハングオフすることで、膝を路面に擦り付けながらどこまでコーナーリングの限界に近づくことができるかを探り続けていた。こうしてロバーツは、恐竜たちを絶滅させた小惑星のように1970年代以降におけるGPの歴史を一気に塗り替えてしまった。2000シーズンを前にミック・ドゥーハン(オーストラリア出身、1994~1998シーズンGP500ccクラス5連覇)が引退し、GP界は再びヨーロッパ出身ライダーたちが主導権を握りはじめたが、その潮流を決定づけたのはヴァレンティーノ・ロッシという新たなゲームチェンジャーの登場だった。

あらゆる面で驚くべき才能の高さを見せつけたロッシは、テクノロジーの進歩へ素早く適応しながら、限界を更にプッシュする能力を持ち合わせていた。その巧みなレース構成力と幅広い対応力はまさに群を抜いており、彼は125/250/500の各クラスを次々に制覇し、やがて新生MotoGP時代の盟主として君臨していく。この頃、MotoGPレギュレーションの制定によって4ストロークエンジンが主流となり、急激にマシンの性能が上がった。しかし、「伝統的ライディングスタイル vs. スーパーバイク由来のライディングスタイル」という構図においてどちらがより効果的であるかについては当初まだ誰も結論を見出せていなかった。ロッシはそうした議論を尻目に、グリップ重視のコーナーリングとタイヤをスライドさせるコーナーリングの両方を自在に使い分けてみせた。過去のあらゆるスタイルを統合し、その上に新たなスターが現れるというこのスポーツの循環構造は、ロッシの登場によって再び印象づけられることになった。

新しいものを嫌う人もいれば、好む人もいる

何年も何年も数十年にわたって「自動車のボディは鉄で作られるもの」という認識が定着していたこともあり、その構造も大きく変わることはありませんでした。どんどん進歩していくエンジンやサスペンションと比べれば、動きのない分野だったのです。しかし、その静寂は環境問題とガソリン価格の高騰によって打ち破られました。

自動車メーカーにとっては、燃費性能こそが死活問題となり、社運をかけた低燃費争いが始まったのです。燃費の向上にはさまざまな手段が用いられます。例えば、エンジン単体の低燃費性能を上げたり、トランスミッションを効率化したり、空気抵抗を減らしたり。これらすべてに手を尽くしたメーカーが最後の切り札として取り組んだのが、車重の軽量化です。実は、自動車の重量は新型モデルが出るたびにどんどん重くなっています。

エアコンに始まりパワーシートやカーオーディオといった快適装備、エアバッグなどの安全装備が車重を増加させているのです。ボディも例外ではなく、衝突安全性が重視されるようになってから、格段に重くなっています。今さらエアコンを外したり、エアバッグを外したりして、快適性・安全性を犠牲にすることはできません。しかし、車重はどうしても軽くしなければならない。その解決策が、数十年にわたってほとんど変化のなかったボディの刷新なのです。

比べて比べて悩んで選んで

電気で動く自動車の電気自動車が人類史上初めて登場した時期は、ガソリン自動車の登場よりも古い1800年代でした。登場した当初こそ実用化レベルまでは到達していませんでしたが、その後、1900年代に近づく頃には、実用に耐えうる電気自動車がイギリス、フランスにおいて開発されました。また、日本にも三輪自動車として電気自動車(アメリカ製の電気自動車プログレス)が個人レベルで輸入されました。1900年代に入ろうとする頃、電気自動車の他にガソリンを動力源とした自動車も実用化されていましたが、電気自動車がもっとも普及に成功していたのです。

この頃のガソリン自動車は技術的に未熟な時代であり、そのメカニズムは製造が難しいこと、さらに、運転する方も高い技量が求められていたためガソリン自動車の普及は進みませんでした。一方で、電気自動車は製造とメンテナンスが比較的簡単であり、運転する方も自動車の始動が容易であるため、電気自動車の方が広く受け入れられていました。1900年頃の世界は電気自動車が主流でしたが、1900年初期にフランスの自動車メーカーが高性能のガソリン自動車開発に成功し、これがきっかけとなりガソリン自動車の機構が洗練され始めました。

一方、電気自動車の方では目立った技術革新は行われませんでした。やがて、米国の自動車メーカー・フォード社が1908年にT型フォードを世に送り出し、政府の後押しも行われ、コスト低下とともにガソリン自動車が人々の間で一気に広く受け入れられるようになりました。このT型フォードが、ガソリン自動車の爆発的普及のきかっけとなったわけです。そして、ガソリン自動車の普及とともに、世界において電気自動車の存在感が薄れて行きました。