読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おすすめさん

おすすめさんのおすすめをおすすめする

素敵な物を作り、素敵な気持ちになる

ものつくり

昔の1932年末、アルファ ロメオは経営が変わった。何年か先のこととなるFiatGroupAutomobiles S.p.A.による買収を除いて、経営が変わったのはこれが最後である。イタリア政府組織であるI.R.I.(産業復旧公社)がアルファ ロメオを買収し、レースからの撤退を発表した。四つ葉のクローバーに代わって、「スクデーリア フェラーリ」の跳ね馬のマークを付けたミラノの赤い車が、以前と同じようにアルファ ロメオの代表としてレースに参加した。

一方、ウーゴ ゴッバートの指揮により、工場は近代化され、大量生産が導入され、トラックやバスの生産も始まった。30年代後半には、会社は大好況を迎える。しかし、レース活動は継続していたが規模は縮小されたままだった。37年、ジョアッキーノコロンボがヴィットリオ ヤーノの後を継ぐと、翌38年には再びレース専門部門「スクデーリア アルファ」が創設される。だがレース活動は、政治情勢や制裁措置の影響を受けるようになり、ムッソリーニはイタリア人ドライバーがフランスのレースに出ることを禁止、39年の「ミッレ ミリア」は中止されてしまう。

航空機エンジンの生産が強化され、新工場の建設工事がパミリャーノ ダルコで始まった。第二次世界大戦にイタリアが参戦すると、アルファ ロメオは組織としてありとあらゆる問題を抱える。部品はますます入手が困難になり、ポルテッロ工場は1940年、43年、44年と3度の爆撃を受け、3度目の爆撃によって生産活動はほぼ停止してしまう。45年になって徐々に生産が再開されると、船舶用エンジン、航空機エンジン、そして最新式でオリジナルの電気調理器の生産まで行われた。

自動車の生産も再開され、まず美しい6C 2500が、次に158が登場する。これは50年に159へと発展し、外観はほぼ変更されなかったものの、内部は徹底的に改善され、グレードアップしたエンジンを搭載していた。アルファ ロメオは、この頃ようやく戦争の悪夢から抜け出す。ビョンデッティの「ミッレミリア」での優勝は、この「再生」のもっとも象徴的な出来事となった。ビショーネ社が、車の大量生産と、ピニンファリーナとトゥーリング設計のボディを持った6C 2500の華麗な「特別エディション」シリーズに関して、再び決定的な役割を果たしたのである。1950年という年は、アルファ ロメオにとって生産面でもレース活動面でも大きな変化の年であった。